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商舗・廊 村上邸の歴史 堀之内屋の開業 ​江戸時代の初期ごろに大洲藩内堀之内(現在の大洲市若宮)にて「堀之内屋」という商号で開業しました。伝聞等によると油などを販売していたとのこと。 家督を継ぐ長男は代々「堀之内屋長次郎」を継いできました。堀之内屋5代目が堀之内から志保町(現在の肱南地区)へ拠点を移します。 ​ 建物の歴史 「商舗・廊 村上邸」の建物はその時に堀之内屋の新店舗として建造されたと考えられます。同時に「製蝋業」に乗り出し、当舗の正面に居宅兼製蝋工場として「村上長次郎邸」を建造しました(現在のHOTEL NIPPONIA OKI棟)。つまり「製蝋業」へ商売替えをするために転居したものと考えられます。 当時は登記制度がないため正確な建造年は不明ですが、安政年間に製作された住宅地図に「堀之内屋源吾」邸と記録が残っており、築170年以上は経過していると謳っております。さらに文部科学省の調査でも建築工法、建材の加工痕から江戸末期に建造されたものでほぼ間違いないとされております。 ​ 堀之内屋から村上へ 江戸時代、町人や農民は姓を名乗ることが許されておらず、当時の戸籍は「堀之内屋〇〇」でございました。ところが5代目の「堀之内屋源吾(幼名)」の戸籍台帳に忽然と「村上」姓が追記してありことから商売等による大洲藩への貢献により、お殿様から村上姓を下賜されたのではないかと推察されます。 村上家の家紋は「内」の字をデフォルメしたデザインです。これは「堀之内」の内から採ったものであります。 村上家の家紋を当舗のロゴマークとして後継者様にご許可をいただき使わせて頂いております。 ​ 河内虎次郎氏との関係 臥龍山荘を建てたことで知られる貿易商「河内虎次郎」氏は日本製の木蝋を「JAPANESE WAX」の商品名で工業製品として、欧米に輸出しておりました。主に織物業や化粧品製造業で大きな需要があり、かなりの輸出量だったそうです。お陰で日本中の製蝋業者が莫大な収益を手にしていくことになります。河内虎次郎氏は西日本の製蝋業者を訪ねては質の良い木蝋づくり(伊予式晒し法)を伝授したり、製蝋業組合を設立しました。第1回目の「全国木蝋業大会」は大洲市で開催され、その時の実行委員長は7代目村上長次郎氏でした。 ​ 製蝋業から銀行家へ 明治中頃になると西日本各地の製蝋業者は次々と「銀行」を設立していきます。日本で銀行法が施行されたことに伴うものですが、製蝋業者は農家が持ち込む蝋の原料「櫨の実」と木札を交換し、両替所で木札を両替えするシステムを自前で持っていたので容易に銀行業に進出できました。村上一族も、本家は「大洲銀行」、分家(当舗)は「大洲商業銀行」をそれぞれ設立します(現在の伊予銀行に連なる)。本家分家ともに銀行家として大洲市の経済をけん引していくことになります。ちなみに木蝋はというと、明治の終わりから大正にかけて国際取引価格が暴落し、大多数の製蝋業者は廃業していくことになります。